建物や庭園を様々に彩った物語

岩崎小彌太男爵別邸跡地に建つ「山のホテル」。別邸時代、岩崎男爵は庭園を整え、桟橋を作って、多くの人を別邸に招き、もてなしました。
別邸から「山のホテル」になって60余年。男爵のホスピタリティは、今も「山のホテル」に受け継がれています。

男爵別邸時代

「小田急 山のホテル」は、かつて岩崎小彌太男爵の別邸でした

コンドル設計、石造りの別邸コンドル設計、石造りの別邸

岩崎 小彌太 男爵

岩崎小彌太夫妻岩崎小彌太夫妻

三菱の創始者である岩崎彌太郎の弟、彌之助の長男。
三菱財閥4代目総帥。
1916年に三菱合資会社社長に就任。
同社の各事業部を分離独立させて、一大企業集団を形成、「技術の三菱」の名声を築いた。

広大な敷地面積を誇る『山のホテル』。この地は、そもそも三菱の創業者岩崎彌太郎の甥である岩崎小彌太男爵(1879〜1945年)の別邸が建てられていたところでした。目の前に広がる芦ノ湖、その隣には富士の雄大な姿。1911年(明治44年)、別邸は、箱根で指折りの景勝地としても知られる場所に建てられました。
別邸を建てるために、男爵が手に入れた土地は10万坪(その半分強は、1942年に成蹊学園に譲られています)。これほど広い土地を確保したのは、自身がケンブリッジ大学に留学していたときに覚えた狩猟を存分に楽しむためだったといわれています。
別邸は、完成して1年ほどで火災のため焼失。その後、日本の西洋建築の祖ともいわれ、現在国の重要文化財ともなっている東京台東区にある旧岩崎久彌邸(後の最高裁判所司法研修所)を手がけたことでも知られる、ジョサイア・コンドル設計の建物が建てられました。残念ながら、石造りの2階建洋館のこの建物は関東大震災(1923年)によって崩壊しましたが、翌年、コンドル設計の建物をほぼ再現する形で木造で建て替えられました。岩崎男爵は、静かで幽遠な芦ノ湖畔の風景を深く愛し、コンドル設計時には49坪だった建物に、その後、和館などを増築していきました。
ボート遊び、ゴルフ、ツツジ庭園。多くの来客で賑わった、芦ノ湖畔の男爵別邸

ゴルフ場のクラブハウスでくつろぐ人々ゴルフ場のクラブハウスでくつろぐ人々

コンドルが設計した芦ノ湖畔の別邸は、石造りの洋館。1階にホール、居間、食堂、2階に寝室を3室、建坪49坪と、小さいものでした。ところが、狩猟に、ゴルフに、あるいは小彌太夫妻と語らうために、ここにも多くの来客が訪れるようになります。
その多くのゲストとともに岩崎小彌太男爵が別邸で興じたのは、ボート遊びやゴルフでした。現在も「サロン・ド・テ ロザージュ」の隣りに艇庫の名残の石垣を見ることができますが、そこは男爵所有のボートが繋がれていた場所です。また、1935年(昭和10年)には敷地内にゴルフコースも新設。9ホールのプライベートコースは、芦ノ湖を眼下に、別邸ならではの絶景を楽しみながら回れるものでした。1937年(昭和12年)にはゴルフ場にクラブハウスも建設。別邸に集う人々の憩いの場所になりました。
一幅の絵のように別邸の庭園を仕上げた岩崎男爵

川瀬巴水の版画川瀬巴水の版画

別邸当時のツツジ庭園別邸当時のツツジ庭園

岩崎小彌太男爵の別邸庭園には、3000株のツツジと300株のシャクナゲが植えられ、5月ともなるとツツジが、そのあとを追うようにシャクナゲが咲き誇りました。そもそもこれらの花も、別邸を建築する際に植えたもの。30種を数えるツツジは、男爵が全国津々浦々から集めたものです。シャクナゲの中には、男爵が留学先のイギリスから取り寄せたものもあり、それらは日本で最初に輸入されたものともいわれています。また男爵は、庭園をつくる際、大自然を巧みに取り入れ、一幅の絵のように仕上げました。つまり、西側を眺めると、富士山に向かってツツジが駆け登るように配され、南側に目を転じると芦ノ湖に流れ込むようにツツジが植えられています。

別邸庭園での園遊会別邸庭園での園遊会

ツツジが開花する時期、岩崎小彌太男爵は別邸の庭園で、系列会社の経営陣や従業員たちを招いて『園遊会』を開きました。駒ヶ岳山麓を背景に、赤、ピンク、白と、一面じゅうたんを敷いたように咲き誇るツツジの花。一人でも多くの人と、この美しさを分かち合いたいという思いから、『園遊会』は開かれたのでしょう。そして、当初、洋館しか建てられていなかった別邸に、茶室など和室が建て増しされていきました。現在、日本料理のレストランとして名を残す「つつじの茶屋」は、男爵が設けた茶室の名前に由来するものです。
俳句を高浜虚子に師事した男爵は、「巨陶」という俳号を持つほどで、のちに『巨陶集』という句集を著し、それには別邸で詠んだ作品も多く収録されています。「一服の 白湯まゐらせむ 山の秋」は、別邸の茶室で詠んだ句です。男爵は文化人との交流も深く、大漢和辞典の編纂者である漢学者の諸橋轍次(もろはし てつじ)氏、版画家の川瀬巴水(かわせ はすい)氏らをたびたび別邸に招いていました。現在も庭園の一隅に「見南山荘」の碑がありますが、「見南山荘」とは男爵が諸橋氏につけてもらった別邸の名前。碑には1938年(昭和13年)初秋、別邸に赴いて講義をしたときの模様が歌われ、芦ノ湖の景観の素晴らしさなどが記されています。

1940年代

観光事業への期待を一心に集め、1948年「山のホテル」誕生

岩崎男爵の別邸を受け継いでホテルオープン(洋画家・相田直彦作)岩崎男爵の別邸を受け継いでホテルオープン(洋画家・相田直彦作)

『山のホテル』がオープンしたのは、1948年(昭和23年)6月1日。新緑が輝き、初夏の風に芦ノ湖の湖面が揺れる、美しい日がホテルの誕生日となりました。戦争が終わり、「これからは観光に力を入れるべきだ」と考えた実業家・油谷国政氏が、横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)頭取、荒井昌二氏ら当時の財界のトップに呼びかけ、国際観光株式会社を設立。
国際観光株式会社は、岩崎小彌太男爵の箱根の別邸を買い取り、ホテルとしてオープンしました。芦ノ湖畔では箱根恩賜公園に次ぐ景観を誇り、見事なツツジ、シャクナゲ庭園を擁する別邸は、ホテルとしての魅力にあふれていたのです。シンプルでだれにでも覚えやすく、しかも場所にふさわしい名をということで、ホテルは『山のホテル』と命名されました。オープン当時、ホテルとして使われた建物は、岩崎小彌太男爵が別邸として使っていたものでした。譲り受けた建物は、2階建ての木造建築の洋館と、それにつながる和館と離れ。ダイニングは広々として明るく、ダイニングの一角にはマントルピース。2階には洋間が3室。和室もあったものの、洋食も楽しめるホテルは、当時非常に珍しいものでした。洋式の過ごし方ができることから、オープンした年の1948年から翌49年にわたる1年間、米軍に接収され、立ち入り自由のオンリミットホテルとして営業しました。
ところが1949年の冬、薪をくべすぎたためマントルピースから火が出て、ダイニング部分と2階部分を焼失。コンドル設計の名残を残す洋館部分は、オープン後わずか1年で姿を消すことになりました。
ハイソサエティな人々の別荘代わりだった初期のホテル

片流れ屋根の2代目の建物 1949年(昭和24年)頃片流れ屋根の2代目の建物
1949年(昭和24年)頃

当時のパンフレットから当時のパンフレットから

1949年(昭和24年)、焼失した建物は、片流れ屋根のしゃれた建物に生まれ変わりました。そのころになると、オープン当時はまだ未舗装の部分があった小田原からの道路も徐々に整備され、東京から車でやって来る人も年々多くなりました。『山のホテル』にも多くのファンができ、一流企業の社長一家や政治家なども多く訪れるようになりました。ときには、喜寿のお祝いをするためにホテルを借り切って親族が集まり、パーティーが開かれることもありました。生活にいくらか余裕ができ、旅行を楽しむ人々が増えたとはいえ、当時、1泊2食付きの宿泊料金は、新入社員の給料に匹敵するほど。ホテルに泊まることは、たいへんな贅沢で、『山のホテル』は上流階級の人々の別荘代わりに使われることが多かったのです。
映画のロケーションにも使われたホテル

昭和30年代 映画のロケ風景昭和30年代 映画のロケ風景

緑の丘陵、ツツジとシャクナゲの庭園、食堂や客室から眺める紺碧の湖と、雄大な富士の姿・・・

『山のホテル』の自然に魅せられた人の中には映画監督も多くいました。当時、映画は人々の最大の娯楽で、庭園は、数多くの映画のロケーションに使われました。監督たちがとくに愛したのは、庭園から見える富士の姿。『山のホテル』は、美しい富士山が見えるホテルとして有名だったのです。
また、ロケで訪れたのをきっかけに、宿泊された役者さんも多く、ファンと共に交歓会を開くこともありました。とくにツツジやシャクナゲが咲く季節にこのようなお客様を迎えると、ホテルはいっそう華やいだ雰囲気に包まれました。

1950年代

海外からの利用客が増え、リゾートホテルとして成長。赤い三角屋根が新婚カップル憧れの的に

芦ノ湖のほとりに建つ3代目の山のホテル芦ノ湖のほとりに建つ3代目の山のホテル芦ノ湖のほとりに建つ3代目の山のホテル

1955年(昭和30年)、『山のホテル』は小田急グループの系列に加わりました。その4年後、老朽化した片流れ屋根の建物を、赤い三角屋根のホテルに改築し、リニューアルオープンしたのです。赤い三角屋根は、スイスの山小屋をイメージして建てられたもので、当時はこのようなデザインは非常に珍しく、斬新でモダンで、夢のある建物が評判になりました。一方、時代はまさに高度成長期に突入した時期。昭和30年代になるとハネムーンに出かけることは一般的になり、熱海や伊豆箱根に出かけるカップルが増えました。そのような時代の中で、ハネムーンで泊まりたいホテルとして人気が高かったのが、『山のホテル』でした。「本館は、すべてハネムーンのお客様、なんていう日もあったんですよ」とは、当時の山田支配人の言葉。『山のホテル』にハネムーンに行くというのは、その頃の若い人の憧れでもあったのです。
ホテルが改築される2年前には、オレンジ色とシルバーグレーのロマンスカーも登場。最新型の特急列車に乗り、赤い三角屋根のホテルに泊まる。ベッドが置かれた洋室、ダイニングで食事ができるというのも当時としては、たいへんおしゃれで魅力的なことだったのです。
箱根らしさにこだわり、フォンデュを生んだおもてなしの心を忘れずに

シンボルメニューであったフォンデュシンボルメニューであった
フォンデュ

フォンデュを楽しむ外国からのお客様フォンデュを楽しむ
外国からのお客様

海外からの観光客が大勢訪れるようになった『山のホテル』最大の悩みは、食事でした。現在のように和食が世界的に認知され、和食好きな外国人が多い時代と違って、当時は生の魚を食べられない外国人も多くいました。
外国のお客様にも日本のお客様にも喜んでいただけるメニューは何かと・・・考えた末に生まれたのが、オイルフォンデュでした。
魚、肉、野菜などを串にさし、熱したオリーブ油で揚げながら召し上がっていただく。シンプルなだけに素材にごまかしがきかないメニューです。しかし、近くの駿河湾からは毎朝獲れたての魚介類を、近隣の農家からは新鮮な野菜を届けてもらい、オイルフォンデュは外国人客に大評判を生みました。

1960年代

海外のお客様も魅せられた、箱根の名所ともなった「山のホテル」

自家用車で訪れるお客様も自家用車で訪れるお客様も

ロビー・大食堂ロビー・大食堂

東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39年)は、東海道新幹線が開通した年。高速道路をはじめとして、全国各地で道路が整備され、自家用車を持つ人も年々増えてきました。赤い三角屋根の時代は、どこへ行くにも便利になり、暮らしにゆとりも生まれ、日本中が観光旅行にわきたった時代でもありました。
そして、箱根を巡る定期観光バスが必ず立ち寄った場所が、『山のホテル』でした。多いときには1日20台のバスが訪れ、1000人を越えるお客様が休息をとり、昼食を楽しんで行かれたのです。
外国の方の中にも、日本に来たからには富士山を一目見たいと、団体でバスを仕立てて来られたり、個人的に宿泊される方が多くいました。当時、箱根は日本旅館がほとんど。西洋式の設備とサービスを提供できる『山のホテル』は、海外からのお客様に対応できる数少ないホテルだったのです。
映画俳優、作家や画家にも愛された景色と食事

獅子文六氏(右)、宮田重雄氏(中央)と山田支配人(左)獅子文六氏(右)、宮田重雄氏(中央)と山田支配人(左)

1968年(昭和43年)、『山のホテル』が増改築を繰り返し、成長していた頃、外国の映画俳優もお客様として迎えることがありました。その世界的な大スターの休日を取材しようと、大勢の新聞記者も宿泊しました。このとき彼が泊まったのは、芦ノ湖と富士山が見える和室。部屋からの眺めとダイニングでの食事には、非常に満足していただけたようでした。
また、作家の獅子文六氏も、『山のホテル』の景色とレストランのファンでした。彼は小説『箱根山』の執筆のため、しばらく箱根に滞在していましたが、執筆の合間に友人の画家、宮田重雄氏とティールームにしばしば訪れ、庭園とお茶を楽しんでいかれたのです。

1970年代

レマン湖のほとりの古城をイメージした本格リゾートホテルとして再スタート

4代目のホテル4代目のホテル

多くの人から愛された赤い三角屋根のホテルが、老朽化のために取り壊されることになったのは、1976年(昭和51年)のことでした。1年あまりの休業期間をおいて、再び営業を開始したのは、庭園のツツジが咲き始める1978年(昭和53年)5月1日。この日は『山のホテル』が、本格的な西洋スタイルのリゾートホテルとして出発する記念すべき日になりました。
それまでもダイニングや洋室をもつ洋風のスタイルは人気がありましたし、サービス面でも定評がありました。しかし、驚くべきスピードで押し寄せる洋風化の波を考えて、リニューアルが必要と判断したのです。
赤い屋根に、白い壁。新しいホテルは、スイス・レマン湖のほとりに建つ古城をイメージして建てられました。建物は西洋式に、サービスは日本旅館のようにきめ細かく。庭園には手を加えず、岩崎小彌太男爵別邸当時のまま残しました。

1990年代

花のホテル「山のホテル」。ツツジが箱根の初夏の風物詩に

ツツジが満開の庭園から富士山を望むツツジが満開の庭園から富士山を望む

別邸時代、多くのゲストをおもてなしした岩崎小彌太男爵の精神を受け継ぎ、『山のホテル』も、昭和40年代から庭を一般開放し、毎年5月につつじ・しゃくなげフェアを開催しています。
1993年(平成5年)には、ツツジが見頃を迎えた庭園の様子がテレビで全国に紹介され、多くの人に知られるようになりました。花を楽しみに訪れるお客様は年々増え、2003〜2004年(平成15〜16年)ごろには、大型バスが1日に70台もやってくることもありました。そして、今や『山のホテル』のツツジは、箱根の風物詩ともなっています。また、岩崎小彌太男爵がツツジとともに、収集に力を入れたのがシャクナゲでした。シャクナゲ園には25種類以上300株が集められ、中には学術的に非常に貴重なものも見ることができます。
2002年には庭園の一角にローズガーデンと、それに隣接してチャペルもオープン。ローズガーデンには、閉園した向ヶ丘遊園のバラ園からバラが移植され、初夏と秋、現在は300株のバラが競うように咲き誇ります。
ツツジ、シャクナゲ、そしてバラ。いまや『山のホテル』は「花のホテル」としても広く知られるようになりました。
クラシック&オーセンティックな箱根のリゾートを

プライベート桟橋プライベート桟橋

1991年(平成3年)にバブルが崩壊後の10年は、箱根のホテル・旅館にとって、たいへん厳しい時代でした。
その中にあって『山のホテル』は、あくまでも「クラシック&オーセンティックな箱根のリゾート」を提供したいと考え、設備の充実を推進させました。
その一つが桟橋です。別邸時代、岩崎小彌太男爵が趣味のモーターボートを走らせたり、遊覧船をチャーターしたり、桟橋は頻繁に利用されていました。その桟橋が新しくなったのは1993年(平成5年)のこと。別邸時代のように、釣りやモーターボートが楽しめるようになり、観光船「フロンティア号」も着くようになりました。

サロン・ド・テ ロザージュサロン・ド・テ ロザージュ

それと同時期に、昔の艇庫もデザートレストラン「サロン・ド・テ ロザージュ」としてオープンしました。芦ノ湖を眺めながらホテルオリジナルのデザートをいただく。今では、箱根を代表するティーサロンとなりました。翌1994年には、客室をリニューアルし、大浴場も完成しました。
また、施設とともに力を入れた料理では、伝統的なフランス料理、本格的な懐石料理を四季折々にご提供。箱根の自然と料理を満喫できる、クラシック&オーセンティックなリゾートホテルとして、充実をはかっていきました。
人にやさしく、自然にやさしく。箱根ならではのリゾートホテルを目指して

プレミアムショップ ロザージュ内観プレミアムショップ
ロザージュ内観

ビューバス2010年4月に誕生したプレミアムルームのビューバス

岩崎男爵が箱根に「日本のスイス」を思い描き、土地を拓いてから100年近く。2008年に『山のホテル』は60周年を迎えました。近年、お客様のホテルでの過ごし方にも観光からホテルライフを楽しむ休暇へと、変化が見られるようになりました。
そこで、お客様がより充実したホテルライフを過ごせるように、ハード、ソフトの両面からリニューアルを手がけてきました。2006年4月には敷地内に良質な湯泉の湧出を確認。自家源泉、芦ノ湖温泉「つつじの湯」を楽しんでいただけるようになりました。温泉に先駆けてトリートメントサロン「スパ モンターニュ」もオープン。2008年には「サロン・ド・テ ロザージュ」にショップもオープンするなど、ホテルでの楽しみ方もより広がりました。
2010年4月には、客室、レストラン、スパ モンターニュなどさらに多くのお客様に満足いただけるよう、リニューアル。源泉掛け流し温泉付き和洋室や、4階には同じく源泉掛け流し温泉付きのプレミアムルームが誕生し、フランス料理レストラン「ヴェル・ボワ」、日本料理レストラン「つつじの茶屋」も個室がそれぞれ誕生。スパ モンターニュは芦ノ湖を一望できるホテル4階にリニューアル。
岩崎男爵が、風景版画の第一人者・川瀬巴水(かわせ はすい)氏(1883-1957年)に自慢の別邸の庭園を中心に描いてもらった6点の版画を、外国からのお客様にお土産や多くの知人に配るために絵葉書にしており、このうち4点の版画がロビーに飾られています。
芦ノ湖と富士山、箱根の美しい自然の中で、これからも、人にやさしく、自然にやさしく、今後も都会で疲れた体をやさしく癒すホテルであり続けたいと願っています。

2015年~現在

受け継がれた”自然”をより上質な”おもてなし”で

山のホテル イメージ

60余年の歴史を持つこのホテルは2015年4月21日、「受け継がれた”自然”を上質な”おもてなし”で」をコンセプトに、大浴場、庭園、客室をリニューアル。
岩崎小彌太男爵が、別邸で大切な客人をもてなした心を引継ぎ、大浴場の全面改修、庭園の設備、客室の改装を実施しました。
大浴場はインテリアのデザインや色調を変え、山のホテルらしいクラシック&オーセンティックな空間に。より快適で機能的な大浴場となりました。
5月を迎えると約30種3,000株のツツジの花が華やかに咲き誇る庭園は、園路を新たに増設。斜面には階段に代わるスロープを設け、メイン園路も舗装し直して美しく歩きやすく、どなたもより安心して散策が楽しめるようになりました。
客室は1~3階の59室を改装。調度品やバスルーム、壁紙、カーテンを一新して、より上質で落ち着いた空間へと生まれ変わりました。

年表

1911年(明44年) 7月 7月 10万坪の敷地に木造の別邸竣工。
1912年(明45年) 1月 1月 別邸、火災で焼失。
1913年(大2年) 9月 9月 別邸、火災で焼失。
1923年(大12年) 9月 9月 関東大震災により別邸崩壊。
1924年(大13年) 別邸再建。コンドルの設計をほぼ復元。木造の洋館。
1930年(昭5年) 離れ建設。
1933年(昭8年) 茶室・つつじの茶屋建設。
1938年(昭13年) 漢学者・諸橋轍次氏により別邸を「見南山荘」と命名。
翌年、「見南山荘」の碑を建立。
1947年(昭22年) 国際観光株式会社設立。別邸を譲り受け、神奈川県庁より『山のホテル』の営業許可を受ける。
1948年(昭23年) 6月1日『山のホテル』オープン。
1949年(昭24年) 本館一部焼失(約360m²)。片流れ屋根の建物が再建。
1953年(昭28年) 和風別館「芦辺荘」オープン。
1958年(昭33年) 本館の改築工事始まる。定期観光客用のレストハウス竣工。
1959年(昭34年) 7月 7月 赤い三角屋根の本館オープン。
1963年(昭38年) 和風離れ「石南花荘」オープン(5室)。
1978年(昭53年) 5月1日、現在の建物にリニューアル。
1981年(昭56年) 会議室「金時」「乙女」オープン
1988年(昭63年) 1泊夕・朝食付きの宿泊プランを販売開始。
1993年(平5年) 9月 9月 浮桟橋並びに「サロン・ド・テ ロザージュ」オープン。
1993年(平5年) 3月 1993年(平5年) 3月 3月 客室・レストランをリニューアル。
1993年(平5年) 11月 11月 「露天風呂付き大浴場]オープン。
2002年(平14年) 5月 2002年(平14年) 5月 5月 閉園した向ヶ丘遊園からバラ500株を一部移植して「ローズガーデン」オープン。annex「ASHIBE」リニューアル。
2002年(平14年) 12月 12月 「ガーデンチャペル」オープン。
2003年(平15年) 4月 4月 客室等をリニューアル。
2004年(平16年) 4月 4月 新宿〜山のホテル間高速バスが開通。
2006年(平18年) 7月 2006年(平18年) 7月 7月 「スパ モンターニュ」オープン。
2006年(平18年) 10月 10月 敷地内に天然温泉湧出、芦ノ湖温泉「つつじの湯」誕生。
2008年(平20年) 3月 3月 「プレミアムショップ&サロン・ド・テ ロザージュ」リニューアル。
2009年(平21年) 4月 4月 開業60年を機に日時計を復元。
2010年(平22年) 4月 4月 客室・レストランをリニューアル。
2015年(平27年) 4月 4月 客室・庭園・露天風呂付き大浴場を リニューアル。